重力の虹の恩寵(3)
重力の虹の恩寵 ラトゥール家殺人事件
(3)
彼が「唯識論的本質直感」によって導き出した事件の真相を理解して、私は暫く口がきけなくなるほどの衝撃を受けていた。
その通常では考えられない結論に対し、私は何度も反論を試みた。しかし、それは彼の平易且つ怜悧な論理の前で完全にふさがれた形となったのであった。
ここへ来てからどの位時間が経ったのだろうか。
彼が披瀝した推理に対し、私は自分の大切なものを守るため、必死になってその論理の綻びを見つけようとした。それはまるで彼と私の間の「闘い」であった。結局、私が立ち直れないほど完敗したわけだが。彼が私に説明するために壁中に黒炭で書いた図や数式やらが、その「闘い」の壮絶さを物語る。
彼は嫌味なほどフェアに、難解な言葉で煙に巻いたりしようとはしなかった。むしろ私の手をとって一歩一歩丁寧に導いてくれたのだ。最終的に連れて行かれたのが宇宙空間だったとしてもだ。
だがしかし、そこに至る理由を理解し納得したとしても、その結論に対しては「理不尽」という感想しか持ち得ない。殺人の方法がSFにしか存在しないと思っていた「反重力」を利用したものであり、邸宅の上空に浮かぶ虹と思われたものは過大な重力による空間の歪みであったこと。これまで親友だと思っていたクロエは実は女装したジルベールであり、ジルベールを殺害した犯人は実はジルベールに化けていた者であるらしいこと…
ひたすら茫然とする私の前に彼はマグカップを置いた。お茶を入れ直してくれたようだ。カップを口にすると、ようやく私は少しづつ落着きを取り戻し始めた。
「…事件の真相を父にはどう説明したらいいのかしら。私にはその自信がない…あなたが代わりに…いえ、いいわ。あなたは十分やってくれたわ…ほんと、一体あなたって何者なの?」
彼はその質問には答えようとはせず、夏頃までに日本に戻らなければならないことを告げた。その言葉は私にとって唐突に響いた。
「どうして?ずっとそばにいてくれないの?これから私はどうしたらいいの?」
恥ずかしいことだが、私はこの時彼に完全にロジックで打ち負かされたことにより、自分一人では立って歩けない赤子のようになってしまっていた。この時の彼に対する気持ちは、恋愛感情でも父親のような庇護者に対するものでさえない、むしろ宗教的な指導者に対する崇拝の念のようなものだったと言えるかも知れない。
彼は私を安堵させるかのように、日本に帰るまでには日本語の授業を一通り終わらせること、私に困ったことがあれば可能な範囲で助けてあげてもよい、ということを約束してくれた。
「でも、ずっとこのパリにいることはできないの?やっぱりあなたが追っている人物…倒さなければならない悪のためなの?」
彼はベッドの上に無造作に置かれた黒表紙の本を指さした。そして、そこに「日本に戻れ」というメッセージが浮かび上がったと語った。
私はその本を手に取ってページをパラパラとめくってみた。日本語で書かれているようだ。
「私カタカナなら少し読めるかも。えーっと…『ビクッ…ビクッ…』『アァーッ…』…うーん、全然意味がわからないわ。もっと勉強しなくちゃ。これ、もしかしてゼンの本とか?」
そんなようなものだと彼は答えた。
その時、ふと腕時計を見て驚愕した。私がここへ来てからまだ一時間程度しか経過していないのだ。とっくに日が暮れる時間は過ぎたと思っていたのに。この短時間に恐るべき情報量が凝縮されたのだ。
そして、私はその一時間で心も脳も完全に疲労困憊してしまっていた。
「今日は疲れたから、そろそろ帰ることにするわ。」
男はうなづく。
「メルシー、ムッシュ・ケモノミチ」
彼の頬に軽くキスをすると、私はその安ホテルを後にした。
往路では気づかなかったが、道すがら振り返ると当のホテルの全体像を望むことができた。
よく見ると、彼の暮らす屋根裏部屋あたりに小さな虹がかかっている。
例の壁の穴から細い水流が放物線を描いているのが見えた。