重力の虹の恩寵(1)

電奇梵唄会奉納ソワカちゃん雑文祭 参加作品


重力の虹の恩寵 ラトゥール家殺人事件

<登場人物>
ミレーユ・リオタール   フランス警察・警視の娘。日本文学を学ぶ女子大生。

クロエ・ルグラン     ミレーユの友人。ジルベール・ラトゥールの恋人。
ジルベール・ラトゥール  ラトゥール家の御曹司。密室殺人の被害者。

男            ラテン系万葉人


(1)

モンマルトル街近くの貧しげで見すぼらしい路地に面した安ホテルにその男は逗留していた。イタリア人の血を引く日本から来た男。「ちょびっと私用でチベット修行」をしていたこともあるらしい。この男について現在わかっていることは、その程度でしかない。

寒風の吹く冬枯れの街を外套の襟を立てて進む。灰褐色に覆われ生気を失ったかのような街並みは、まるでそこにいるものを陰鬱にさせる力があるかのようだ。私と同世代の女性ならば、まず足を踏み入れることはないだろうそんな街を私は一人歩いている。安ホテルの屋根裏部屋で暮らす素性不明の外国人と会うために。

その外観からはホテルとは気づかない程ひなびた建物だったが、申し訳程度の小さな看板が当の目的地であることを認識させてくれた。思い切ってドアを開けると、中は薄暗くひっそりとしていて誰の姿も見当たらない。構わず目の前の軋む階段を最上階の5階まで登り詰め、踊り場の奥に物置のものと見まごうような粗末な扉を見つける。わざわざそんなことをする必要があるのかと思いつつも、扉をノックしようとした途端、中から私の入室を許可する声が聞こえてきた。古くて建てつけの悪そうなこんな安ホテルであれば、物音から当然誰かが訪ねてきたことはわかるだろう。しかし、私がここへ来ることは事前に彼には知らせていない。いや、むしろ知らせることができなかった、というべきだろうか。ホテルに電話しても誰も出なかったのだから。だが、扉の向こうでたしかに私の名前を呼んだのだ。「ミレーユ」と。

一瞬たじろぎつつもドアを開けると、中にはあの男が立っていた。いつものように上半身裸でポーズをつけながら、微笑とも無表情ともつかない顔をして私を見ている。

窓ひとつなく余計なものが一切置かれていない質素なその部屋は、凍えるように寒かった。むしろ部屋の外のほうがまだ暖かいといえるほどだ。どうしてこんな中を裸でいられるのだろうか。私は外套を脱がない非礼を形式的にでも詫びようかと一瞬考えたが、この状況下でそれが何かとても馬鹿々々しい物言いであるような気がして、それを控えた。

男は促すかのようにテーブルに向かって手を差し出す。その先にはマグカップが置いてあり、中から湯気が立ち上っていた。中身は日本の緑茶のようだ。

「あなたの国では、客人に自分が飲んでいたお茶を勧めるのが礼儀なの?」
急に訪ねてきて第一声がこれか、と少し後悔したが、彼は少しも表情を変えずに、私のために今用意したばかりであることを告げた。

「でも、あなたにはどうして私が来ることがわかったの?これも例の『唯識論的本質直感』っていうやつ?」
何か言いかけようとする彼を制して、私はまくしたてた。
「わかってる。『唯識論的本質直感』はオカルトでも何でもない。特定の感覚をある論理の筋道に従って結論に向かって昇華させる方法とでも言うべきかしら。この場合、そこに付随する余計な現象は戦略的(ストラテジック)に判断停止(エポケー)されるっていうわけよね。当然、何らかの訓練なりが必要なんでしょうけど…これ、いただくわ。」
テーブルの上のマグカップに手を伸ばす。カップにはピストルを両手に持つ悪趣味なカートゥーンのキャラクターが描かれていたが、気にせず口をつける。緑茶の温かみと独特の苦味が私を少し落ち着けてくれたようだった。

「…これだけは言わせてちょうだい。私は自分では何も考えられない頭の足りないマドモワゼルだと思われるのがいやなの。だから、あなたがどうして私の訪問を察知できたのか、それを答えて見せようと思うの。」
彼はまたもや何か言いかけようとしたが、私が睨みつけると、諦めたようにおし黙った。

「ここはまず私がここへ来た理由から考えるべきだわ。…私の友人クロエのボーイフレンドが不可解な状況で殺害された。あなたは私に日本語を教えるために我が家に来たとき彼らと顔を合わせているし、自己紹介もされている。そしてこの事件は新聞にも載っているから、当然知っていても不思議はない。」

「報道ではその殺人が密室という不可能状況で行われたことは伝えられていない。だけど、犯人がまだ見つかっていないこと、パリ有数の資産家であるラトゥール家の御曹司が殺されたのは大変警備の厳しい邸宅の中であることは伝えられているから、何らかの理由で捜査が困難を極めていることは想像できるかも知れない。」

「あなたは決して口には出さないでしょうけど、警視である私の父も含めてフランスの警察は無能だから、こんな難解な事件は解決できないと思っている。そこで、自分の立場を利用して捜査状況を把握できる私が、友人の悲しむ姿に心を痛めてきっと泣きついてくる。そう思ってるに違いないのよ。」

「たしかに前回の事件を解決したあなたの手際は見事だったわ。普通の人間ならばあんなことは考えられない。密室で老人が死んだ原因は、階下でドンチャン騒ぎをした若者達によって増大したエントロピー熱力学第二法則のいう熱死を引き起こしたからだなんて…」

「事件から一週間経って捜査がそろそろ手詰まりとなって、それでちょうど大学のカリキュラムの終わるこの時間頃に私が訪ねてくる。きっとあなたはそう考えたのよ。ただ、お茶を出すには、事前にお湯を沸かしてなければならない。そこまで時間を特定するのはやっぱり無理があるから、あなたは自分でお茶を飲もうとしていたところを咄嗟に切り替えたのよ。そうでしょ?」

彼は何も言わずじっと私を見つめた。相変わらず表情は変わっていない。ふと、彼は壁を指差した。壁が裂けて穴が開いている。そこから外の寒風が部屋の中に吹き込んできていた。この部屋が異様に寒い理由はそれだったのだ。壁の穴を覗き込むと、私がこのホテルまで歩いてきた道のりを、遥か遠くまでまっすぐ見通すことができた。

少し沈黙が続いた。私は自分を落ち着かせるために再びお茶を飲むことにする。品が無いけれども、音を立てて飲むのが日本流だと聞いていたので、この機にそれを実践してみせた。お茶をすする音だけが、空しくこの部屋に響く。

「…で、私の推理は今回の本質じゃないのよ。そんなところに神は宿らないと言えるわ。ここへ来た理由は、さっき説明したとおり、友人のボーイフレンド、ジルベール・ラトゥールが殺された際のトリックをあなたに解き明かしてほしいからなの。」
そう言うと、私は彼の返事を待つことなく、テーブルの上に捜査資料のコピー・現場の見取り図・遺体写真を並べ始めた。

「事件は先ほど話したようにヴィクトル・ユゴー街にあるラトゥール家の邸宅内で起きたの。外から入り込む隙など全くない場所で被害者の遺体は見つかった。現場は内側から鍵のかかった完全なる密室。その部屋に指紋など被害者以外の痕跡は発見できず。死因は胸部圧迫による窒息死。当然自殺の線はなく、凶器、すなわち何による圧死なのかも解っていない。なぜか死亡推定時刻の頃に、雨も降っていないのに邸宅の上空に虹のようなものが目撃されている…お察しのとおり、警察はお手上げの状態です。これでいかが?」
私はしばらくその男の反応を待った。少しして、彼はテーブル上に陳列された資料に一瞥を投げると、捜査には協力できない旨を口にしたのだった。

「どうして?解決してほしいとは言わないわ。推理のヒント、あるいは少なくともあるべき捜査の道筋を教えてほしいの。それだけでもダメなの?」
必死に食い下がったが、彼は頑として協力してくれようとはしない。

「…たしかに前回の事件は、あなたが追ってるらしい人物を見つける過程で解決せざるを得なかった、ということだったわよね。その人物については、全然詳しく話してくれないけど…でも、今回の事件は前回と違って私が興味本位で首を突っ込んでるってわけじゃないの。クロエが…私の親友のクロエのためにも、解決してあげたいの!お願い!」

彼は前に語ったことがある。世の中には様々な悪がはびこり、また悲惨な境遇に苛まれている多くの人々がいる。自分にはその全てと闘い、全ての人達を救済することは当然物理的・時間的にできない。例えばメディアで取り上げられるような事件があっても、それは偶々メディアで取り上げられたに過ぎず、メディアが大抵取り上げる基準はその事件のセンセーショナリズムか「規模」でしかない。10000人が死ぬ事件でも1人が死ぬ事件であっても、死は結局1人1人個々の問題であり、人数の多寡により事件の重大性を決めることは、社会をコントロールしようとする側、まさに「支配者」側の論理に堕すだろう。しかし、これはメディアで取り上げられた事件を解決しようとする人間を別に非難しているというわけではない。それもひとつの「基準」だからだ。自分はこの世界に無数にある事件の中で「偶々知ってしまった事件」を解決しようとは思わないだけだ。自分が解決し、闘うべき悪はたった一つだけと決めているからだ。

私は彼の語る論理をそのときは一応は納得したつもりだった。だが、どこか納得のいかないもやもやしたものが心の奥に残る。私達は偶々知り合っただけなのかも知れない。でもその知り合った人間が助けを求めても、それが「偶々」だから解決に値しないというのだろうか?そこに感情というものは存在しないのだろうか?人間はそこまで冷徹になれるのだろうか?

私は彼に対して無駄に言葉を重ねるのをやめ、もはや懇願を越えて祈りといった気持ちをもって彼を見つめ続けた。

二人の間に長い沈黙が続いた。

そして、ついに男の口が開いた。彼は言ったのだ。君は真実を見つめる勇気があるのかと。
私がその言葉に強くうなづくと、男はおもむろに両手を上げ、まるで鳥が舞うような不思議なポーズをとりはじめたのだった…