恋虹

プロローグ

君と出会わなければ


こんな気持ちにはならなかったと思う。





君と出会ってなくても


お腹は減ったと思う。





私は今日も遠くを見つめる。



あの虹の下に


君がいるから。


<1>

「あ〜!!超お腹減ったしっ♪♪」


私、美加みかん。高校一年生。
背も低いし、
そんなにかわいくないし、
頭もよくないし、
太り気味だし。


中学のときから今まで、何となく人を好きになったことはあるけど、本気になったことなんて一度もない。


そんな中、君と出会った。


みかんの中の何かが、君に出会ったことで変わっていく…





教室に入ると、いつものメンバーが集まっている。


「あ、みかん、おはよ。
さっき、駅前のヨシギューにいなかった?
…そんでさ、今度の生徒会長かっこよくない?
私、つきあっちゃおうかな?」


彼女は、葦野むくみ。
胸まであるウェーブがかったロングヘアーの枝毛チェックに余念がない。


私たちのグループの中では一番大人っぽくて美人。
言い寄ってくる男達も数多くいる。


周りには結構遊んでると思われてるけど、ホントはいつも真剣に恋してるってこと、私は知ってる。


「あ、むくみ、例のカレとはどうなったの?」


訊いたのは河宅りこ。
ブラウンの髪をショートカットにした目がクリッとしてるかわいい女の子。


中学の頃からつきあってる彼とは今も続いてる模様。


でも、あまり語りたがらないので、うまくいってるのかいってないのかは謎。


その割には他人の恋愛には興味シンシンで、根堀り葉堀り聞いてくるちょっと困ったコ。
悪気はないんだろうけど。


「ああ、アイツ?別れちゃった。
だってなんかいまいちイケてないんだもん。」


夜中に電話をかけてきて、泣きながら「別れたくない」って言ってたのは誰なのか?


まあ、吹っ切れたんなら、それはそれでよかったけど。




「ねえ、みかん、知ってる?」
りこの問いかけに続きがあるのかと思ったら、私の反応を待ってるみたい。


“知ってる?”とだけ聞かれても、答えようがないんだけど。


「え、何を?」


「あのね、今日うちのクラスに転校生が来るんだって」


「ほう」


「あのさ、みかん」


むくみが割って入る。


「女子高生は『ほう』とか言わない」


「あ、そうすか。で、男女どっちなの?」


「男と女ひとりづつだって」


「へー、ふたりも。ふーん…」


その後どんな出会いが待っているのか、この時私は、まだ知らないでいた…




<2>

「この二人が、今日から皆さんと一緒に勉強することになります。
じゃあ、ひとりづつあいさつを」


先生にうながされたほうの女の子が鋭い目つきで教室内を見渡す。


もし私が転校生だったら緊張してオドオドしてるはず。


だけど彼女はどうしてかはわからないけど、ずいぶん挑戦的な態度に見えた。


「皆さん初めまして。
私の名前は清怒川沙流呂といいます。
父は外国航路の船長で、今はちょびっと私用でチベット修行に行ってます。
母は先のマサカドインパクトで亡くなりました。
そっちの彼とはたまたま一緒に転校してきただけで、知り合いでも何でもありません。
それでは、よろしくお願いします。」


もうひとりの転校生の男の子が、理由はわからないけど、驚いたような顔をして彼女を見ている。


「では、次に君」


「え、えーと、オレはク…へも太郎です。
ソ…清怒川さんのことは見たことも聞いたこともありません。
よろしくお願いします。」


これまた不思議なことに、清怒川さんが彼のことを怒ったような顔をして見ている。


「じゃあ、二人とも席に着いて…」


「あ、先生」


突然むくみが手を挙げた。


「質問コーナーとかは、ないんですかあ?」


「ああ、質問ね。じゃ、簡単にね」


「あのお、へも君の、口から出てるソレは何ですかあ?」


皆がいっせいに彼の口元に注目する。


「…えっと、これは…その…」


「あ、これはにおいセンサーです」


なぜだか横から清怒川さんが答えた。


「ち、違うよお。これは、えーと、アクセです」


そんなやり取りがあって、転入生の紹介は終わった。
この時私はまだ、この出会いの意味を知らないでいた…




<3>

「ねえねえ、めっちゃかわいい転校生来たらしいじゃん♪
どこどこ?」


昼休み、むくみとりこの三人でお弁当を食べていると、隣りのクラスの諸星大三郎・通称モロがやって来た。


かわいい子と見れば声をかけずにいられない、周りのみんなからは、そんな軽いヤツだと思われている。


モロは、ルックス自体は決して悪くないんだけど、そんな性格のおかげで女の子たちから敬遠されてるのも事実。


むくみが素っ気なく答える。


「知らない」


「『知らない』って、冷てえよなーもー」


「だってさあ、ホントに知らないんだもん」


転校生二人は休み時間になると、いつもいなくなっていた。


転校してきたばかりの学校で、一体どこに行くところがあるというのだろう…


「で、どんな感じ?やっぱかわいい?」


「まあ、かわいいって言えば、かわいいかな」


りこと私はお弁当をもくもくと食べていたので、もっぱらモロの相手をするのはむくみの役割になった。


「マジで?うおっ、テンション上がってきた!
で、で、どんな感じ?髪型とかは?」


「髪型かー。うーん…スッキリした感じ」


「スッキリ?スッキリってどんなヘアースタイルよ」


「あと、口からなんか出てる」


「口から?何?」


「棒みたいの」


「棒って…チュッパチャップスとか?」


「わかんないけど。3本」


「チュッパチャップス3本?
ほおばり過ぎじゃね?
しゃべりづらくね?」


「まあ、でもちゃんとしゃべってたから」


「口デカ過ぎじゃね?それ。
…で、誰かに似てるとか、そういうのは?」


「うーん…天気図」


「天気図!?
あー、もう全然わかんね。
実際この目で見ないと何とも言えねえなー。
オレ探してくるわ」


モロはそう言うと教室のドアへと向かった。


彼は、教室を去り際、私のほうを振り向いて言った。


「おま、弁当デカ過ぎじゃね?」


たしかに私のお弁当は彼女たちの三倍ぐらいはある。


だが大きなお世話だ。





<4>

「…であるからしてー(ゲホッ、ゲホッ)この図形の意味するところはー(グハッ、グホッ)
…その点を戦略的(ストラテジック)にー(ゴフッ)判断停止(エポケー)するならばー(カーッ、ペッ)」


新任の根田切先生の授業は全く意味が分からない。
そもそもこれ何の科目だっけ?


どうしてナースに付き添われながら、ベッドから起き上がれないほどの状態で授業なんかするんだろう。



最近この学園の雰囲気がちょっとおかしい気がする。


閉鎖的な学校っていうのもいやだけど、次々によそから新しい人が入り過ぎてる。


この根田切先生や、転校してきていきなり生徒会長になる人や、今日転校してきた二人も…


そういえば校長先生も新しく変わったんだっけ。
あの上半身裸の…


朝礼の時に校長が語ってた「こんなオバちゃんでいいの?」っていう話は、教頭が止めてなきゃどういうことになってたのか…


まあ、根田切先生の時間は授業中にケータイ見ててもバレないからいいけど。


あ、むくみからメール来た。


「放課後、体育館で緊急生徒集会だって!
イケメン生徒会長から大事な話があるんだって!
キャーO(≧∇≦)O」


りこからも


「緊急生徒集会かあ、
ちょっと怖い気もする…癶(癶;゚ё゚;)癶」


りこの顔文字センスはどうにかならないものか。


それにしても、りこが不安がるのも分かる。


生徒会長が代わってからというもの、生徒会の雰囲気もずいぶんと変わった。


生徒会役員はまるで生徒会長の「崇拝者」って感じだし、これまで自由にやって来た部活動の運営なんかにも、だんだん生徒会が口を出すようになってきたみたい。


しかも、生徒会批判が許されないような雰囲気ができつつある。


この間、運動部の部長たちがクレームを言いに生徒会室に乗り込んでいったんだけど、不思議なことに次の日になったら、みんな生徒会のことをほめたたえていたらしい。


一体何が起こったんだろう?




ドンガラガッシャーン!!


派手な音が鳴り響いた。


見ると、へも君が机や椅子と共にひっくり返っている。


どうやら居眠りをしていて椅子から転げ落ちたらしい。


「こらー(ゲホッ)何をしておーる(ゴホッ、ゴホッ)」


こんなに弱々しく怒る人を私は初めて見た。


へも君はつるつるの頭をかきながら、とっても恥ずかしそうな表情を浮かべていた。


その顔を見たとき…


私の中で今まで経験したことのない不思議な感情が芽生えるのを感じた…
なんだかとっても暖かい感情…


(なんだろう…この気持ち…)


その一方で、へも君を見る清怒川さんの氷点下50度ぐらいの冷ややかな目つきが印象的だった。





<5>

「…そのような現状を改革すべく、我々生徒会は生徒諸君の協力の下、より良き聖アウスラ学園を作り上げていきたい。
自由な学園生活、それも尊重すべきと考えるが、果たしてそれが我々生徒にとって絶対的価値と言えるだろうか?
これだけは言えよう。
そんなところに神は宿らない、と。
自由は一方で頽廃と堕落を生み出し、この学園生活の風紀を著しく…」


生徒会長の演説が続いていた。


校旗を掲げた副会長ら役員が生徒会長の脇を固めている。


むくみがうっとりした様子で演説に聞き入っていた。
でも、これまでのむくみの行いは、会長の言ってることと真逆だ。


その時…
ふとめまいのようなものを感じた…


それから奇妙な感覚が私のことを支配しはじめる…


目の前の空間がゆがんじゃったような…
この体育館が外からぐにゃっと押しつぶされたみたいな…


隣にいるはずのむくみたちが遠くに行っちゃって、檀上の生徒会長がすぐ目の前にいるみたいな…


生徒会長の演説はまだ続いている…
まるで頭の中でしゃべっているような感じが…した…


「…我々は……グルグル……グルグル……」


(…グルグル?グルグルって何?)


なぜだか考えをまとめることができない…


一瞬浮かんだ疑問たちは、心の中をすごい勢いで走る川の流れに次々とのまれていく…


私は…私は…どうなってしまうのだろう…


このまま…何か…大きな流れの…中へ…




ゴツン!


頭に何かが当たった。
同時に歪んでいた視界が、カメラのピントが合ったみたいにはっきりした。


見上げると、次々と上から漢字が降ってくるのが見える。
例えとかじゃなくて、文字通り漢字が降ってきたんだからここは信じてもらうしかない。


私の頭に当たったのも、その「漢字」のようだった。


よく見ると、はるか頭上でロープにぶら下がって何か叫んでる男子がいる。


「セイ!セイ!セイ!セイ!」


(へも君!)


へも君は、ひとしきり叫んだあと、ロープをつたってストンと床に降りてきた。


「えー、皆さん、集会は中止でーす。
いったん、外に出てくださーい」


(え?どういうこと?)


私だけでなく、みんなの頭上にも疑問符が浮かんだようだ。


その時!


びんよよよよよよ〜ん!!


B級SF映画のレーザー光線みたいなサウンドが鳴り響いて、生徒会長のいる檀上が七色のまぶしい光でおおわれた。


「ほら!危ないから、みんな早く出て!」


へも君が叫ぶ。


みんな身の危険を感じて、なかばパニック状態になりつつ、われ先に体育館の出口へと向かった。


その時は、急いでてはっきり確認しなかったんだけど、生徒たちが出口へ急ぐ一方で、体育館の隅のドアから、根田切先生とナースが入ってきたのが見えたような気がする…




生徒全員が体育館を出たことを確認すると、へも君は外側からドアを閉めた。


「とりあえず、今日はウチに帰ってくださ〜い」


「え〜?」「何が起きたんだ?」
みんなが口々に疑問の声をあげる。


「詳しいことは、あとで…その…説明的なものがあるので…」


「なんだそれ?」「キミは生徒会の人?」


「いや…オレは、生徒会ではないんだけど…」


「どういことだよ!」「ちゃんと説明しろよ!」
みんな不安から解放された反動なのか、強い調子でへも君に詰め寄っていく。


へも君もこういう状況には慣れていないみたいで、どんどんしどろもどろになっていくのが分かる。


へも君、かわいそう…


「なんだ、あれ!?」


生徒の中に、空を指さす者がいた。
見上げると、背中に噴射で空を飛ぶ機械(あれなんていうの?)を装着した人間が、空から降りてくるのが見える。


「校長?」


唐突に空から現れたのは、例の上半身裸の校長先生だった。


校長は、昔のダンス映画の主人公みたいなポーズで着地を決めたあと、へも君のところへ歩み寄って彼の肩にポンと手を置き、ついで「ニッ」と笑った。


「おっさん!」


へも君はいつの間に校長をおっさん呼ばわりするほど仲良くなったんだろうか?


校長はそれから私たちのほうへ振り向き、またもや「ニッ」と笑うと、おもむろに両手を上げて、まるで鳥が舞うような不思議なポーズをとりはじめたのだった…





<6>

あとで思い返すと全然うまく説明できないんだけど、校長の話を聞いた私たちは、とりあえず今日のところはウチに帰ろうっていうことになって、みんなしてぞろぞろと下校したのだった。


校長の話を思い出しても、そこに説得力みたいなものがあったかと言われると、全然そうは思えない。


「まあ、今日のところは帰りましょうね」っていうようなことをしゃべったあと、再び空へ飛んで行ったことしか思い出せない。


理不尽な思いを抱いていた生徒も少なくなかったはずなのに、誰も文句も言わず、急におとなしくなったのは、全く不思議としか言いようがなかった。


私自身もすっかり「帰りにマックにでも寄ろう」モードになっていて、その時はみんなと一緒に帰ろうとしてた。


むくみ&りこを遥か向こうに見つけて、追いかけようと足を踏み出した途端、まためまいが私を襲った。


私はそれに耐え切れず、その場にへたり込んでしまう。


他の生徒たちは、そんな私にお構いなしに、どんどん先に行ってしまい、ついに私はひとり取り残された格好になってしまった。


そして…


「大丈夫?」


そんな私に声をかけてくれる人がいた。
見上げると…


(へも君!)


「う、うん。ちょっとめまいがして…」


「ありゃ、まだ呪法の効果が残ってるのかな…」


(ジュホウ?なにそれ?
でも、お腹が減り過ぎて、クラッときたなんて言えない…)


「立てる?」


へも君が私に手を差し伸べてきた!


私は恥ずかしさでちょっとためらったけど、最終的にはへも君の好意に甘えることにした。


「ありがとう…やさしいんだ」


へも君はちょっと照れたように笑ってみせた。


「いやー、オレいきものがかりだし…」


そう言うと、彼はふたたび体育館のほうへ向かって走って行った。


「あ、へも君…」


私は走っていく彼の後ろ姿をただ見つめ続けていた…





<7>

結局、むくみ&りこに置いてきぼりをくらったので、ひとりでマックに入ることにした。


そして、ぼんやりと考えを巡らせる。


ふつうなら、体育館で起こった異常な事件についていろいろ考えてみるはず。


だけど、今の私は違った。


心に浮かぶのは、そう、へも君のこと。


転校してきたばかりで緊張気味のへも君。


椅子から転げ落ちて照れ笑いするへも君。


ロープにぶら下がって私たちを助けに来たへも君。


みんなに詰め寄られて困った顔のへも君。


私に向かって手を差し伸べてくれたへも君…


この気持ちは…やっぱり…


自分の気持ちを自覚した私は急に落ち着かなくなって、チキンナゲットを次々と口に放り込まざるを得なかった。


でも…私は彼のことを何も知らない…


彼はどこに住んでるの?


誕生日は?


家族構成は?


朝はいつもパン?ご飯?


明日学校に行ったら早速訊かなきゃ!


そして…そして…私の気持ちを…彼に…


これから先のへも君との学園生活を思い描きながら、私は二個目のテラマックに手を伸ばした…





<8>

次の日学校へ行くと掲示板の前に人だかりができていた。


(なんだろう?)


背の低い私は、前の生徒にさえぎられて、なかなか掲示板を見ることができない。


そんなとき、集まった生徒たちの中に知った顔を見つけた。


「りこ!」


「ああ、みかん」


「これは一体どういうこと?」


「うん、生徒会がね、やっぱり学校を乗っ取ろうとしてたみたい」


「学校を乗っ取る?」


「そう。それで生徒会役員はみんな退学だって」


「え〜っ!?退学!?」


「生徒会を陰で操ってた根田切先生もだって」


「そうなの!?」


そう言えば、あの時、体育館に入っていく根田切先生とナースを見たんだっけ…


「でね、校長も何か関わってたみたい」


「あーやっぱりね。上半身裸だったもんね」


「うん、裸だしね」


その時、私の前にいた背の高い生徒が横にどいたので、自分のところから掲示板の内容がよく見えるようになった。


“以下の者、退学に処す”


掲示板に張り出された紙には、生徒会長以下各役員の名前が書き出されていた。


それから根田切先生や校長の名前も。


(あれ?)


今思いもかけない名前が書いてあるような気がした。


もう一度確認する。



“へも 太郎(1年A組 前いきものがかり)”



「え〜っ!?なんでへも君が!!」


「ああ、ほらやっぱり体育館の時、怪しかったじゃん」


「あれは違うよ!!
へも君は私たちのこと助けようと…」


私は後ろを振り返り、辺りを見回す。


「へも君は?へも君は来てないの?」


「いや、今日は見てないけど…」


私はそのままわけもわからず駈け出していた。


「ちょっと、みかん!みかんってばー!」




教室に着いたがやはり彼はいない。
周りのみんなに訊いてみるけど、誰も彼を見ていないと言う。


それから職員室、校長室、保健室をめぐって、玄関、校庭を通ったあと、校舎の裏をひた走り、体育館の中を横断して、プールサイドを一周し、最終的に校門へたどり着いた。


今までこんなに走ったことがあっただろうか。


でも、どこにもへも君はいない。


あんなに訊きたいことがあったのに!


一緒に楽しい学園生活を送れると思ってたのに!


これでもう、へも君とは二度と会えないのだろうか?


へも君!大好きなへも君!







校門から遥か先に上野の荒地が見える。


この辺は晴れてるのに、上野周辺では局地的に雨が降っているようだ。


私たちの世代にとっては見慣れた光景だけど、それがマサカドインパクトの影響による異常気象だっていうことを、この間学校で習った。


その荒地にはぽつんとボロボロの建物が立っていて、それは昔丸井と呼ばれたデパートなんだそうだ。


その建物の上部に掲げられている看板は、本来は“○|○|”だったんだそうだけど、今は一部が壊れてしまっている。


その看板は、二番目の“○”が取れてしまっていて、そこに亀裂が走っているために、ここからはこんなふうに見えた。



“○|||”



(へも君…)



私は毎日下校時にそれを見ることになるだろう。


そしてへも君のことを思い出すだろう。



上野の上空に虹がかかるのが見えた。





電奇梵唄会奉納ソワカちゃん雑文祭 参加作品

重力の虹の恩寵(3)


重力の虹の恩寵 ラトゥール家殺人事件

(3)

彼が「唯識論的本質直感」によって導き出した事件の真相を理解して、私は暫く口がきけなくなるほどの衝撃を受けていた。

その通常では考えられない結論に対し、私は何度も反論を試みた。しかし、それは彼の平易且つ怜悧な論理の前で完全にふさがれた形となったのであった。
ここへ来てからどの位時間が経ったのだろうか。

彼が披瀝した推理に対し、私は自分の大切なものを守るため、必死になってその論理の綻びを見つけようとした。それはまるで彼と私の間の「闘い」であった。結局、私が立ち直れないほど完敗したわけだが。彼が私に説明するために壁中に黒炭で書いた図や数式やらが、その「闘い」の壮絶さを物語る。

彼は嫌味なほどフェアに、難解な言葉で煙に巻いたりしようとはしなかった。むしろ私の手をとって一歩一歩丁寧に導いてくれたのだ。最終的に連れて行かれたのが宇宙空間だったとしてもだ。

だがしかし、そこに至る理由を理解し納得したとしても、その結論に対しては「理不尽」という感想しか持ち得ない。殺人の方法がSFにしか存在しないと思っていた「反重力」を利用したものであり、邸宅の上空に浮かぶ虹と思われたものは過大な重力による空間の歪みであったこと。これまで親友だと思っていたクロエは実は女装したジルベールであり、ジルベールを殺害した犯人は実はジルベールに化けていた者であるらしいこと…

ひたすら茫然とする私の前に彼はマグカップを置いた。お茶を入れ直してくれたようだ。カップを口にすると、ようやく私は少しづつ落着きを取り戻し始めた。

「…事件の真相を父にはどう説明したらいいのかしら。私にはその自信がない…あなたが代わりに…いえ、いいわ。あなたは十分やってくれたわ…ほんと、一体あなたって何者なの?」

彼はその質問には答えようとはせず、夏頃までに日本に戻らなければならないことを告げた。その言葉は私にとって唐突に響いた。

「どうして?ずっとそばにいてくれないの?これから私はどうしたらいいの?」
恥ずかしいことだが、私はこの時彼に完全にロジックで打ち負かされたことにより、自分一人では立って歩けない赤子のようになってしまっていた。この時の彼に対する気持ちは、恋愛感情でも父親のような庇護者に対するものでさえない、むしろ宗教的な指導者に対する崇拝の念のようなものだったと言えるかも知れない。

彼は私を安堵させるかのように、日本に帰るまでには日本語の授業を一通り終わらせること、私に困ったことがあれば可能な範囲で助けてあげてもよい、ということを約束してくれた。

「でも、ずっとこのパリにいることはできないの?やっぱりあなたが追っている人物…倒さなければならない悪のためなの?」

彼はベッドの上に無造作に置かれた黒表紙の本を指さした。そして、そこに「日本に戻れ」というメッセージが浮かび上がったと語った。

私はその本を手に取ってページをパラパラとめくってみた。日本語で書かれているようだ。

「私カタカナなら少し読めるかも。えーっと…『ビクッ…ビクッ…』『アァーッ…』…うーん、全然意味がわからないわ。もっと勉強しなくちゃ。これ、もしかしてゼンの本とか?」

そんなようなものだと彼は答えた。

その時、ふと腕時計を見て驚愕した。私がここへ来てからまだ一時間程度しか経過していないのだ。とっくに日が暮れる時間は過ぎたと思っていたのに。この短時間に恐るべき情報量が凝縮されたのだ。

そして、私はその一時間で心も脳も完全に疲労困憊してしまっていた。

「今日は疲れたから、そろそろ帰ることにするわ。」

男はうなづく。

「メルシー、ムッシュ・ケモノミチ」

彼の頬に軽くキスをすると、私はその安ホテルを後にした。


往路では気づかなかったが、道すがら振り返ると当のホテルの全体像を望むことができた。

よく見ると、彼の暮らす屋根裏部屋あたりに小さな虹がかかっている。

例の壁の穴から細い水流が放物線を描いているのが見えた。

重力の虹の恩寵(1)

電奇梵唄会奉納ソワカちゃん雑文祭 参加作品


重力の虹の恩寵 ラトゥール家殺人事件

<登場人物>
ミレーユ・リオタール   フランス警察・警視の娘。日本文学を学ぶ女子大生。

クロエ・ルグラン     ミレーユの友人。ジルベール・ラトゥールの恋人。
ジルベール・ラトゥール  ラトゥール家の御曹司。密室殺人の被害者。

男            ラテン系万葉人


(1)

モンマルトル街近くの貧しげで見すぼらしい路地に面した安ホテルにその男は逗留していた。イタリア人の血を引く日本から来た男。「ちょびっと私用でチベット修行」をしていたこともあるらしい。この男について現在わかっていることは、その程度でしかない。

寒風の吹く冬枯れの街を外套の襟を立てて進む。灰褐色に覆われ生気を失ったかのような街並みは、まるでそこにいるものを陰鬱にさせる力があるかのようだ。私と同世代の女性ならば、まず足を踏み入れることはないだろうそんな街を私は一人歩いている。安ホテルの屋根裏部屋で暮らす素性不明の外国人と会うために。

その外観からはホテルとは気づかない程ひなびた建物だったが、申し訳程度の小さな看板が当の目的地であることを認識させてくれた。思い切ってドアを開けると、中は薄暗くひっそりとしていて誰の姿も見当たらない。構わず目の前の軋む階段を最上階の5階まで登り詰め、踊り場の奥に物置のものと見まごうような粗末な扉を見つける。わざわざそんなことをする必要があるのかと思いつつも、扉をノックしようとした途端、中から私の入室を許可する声が聞こえてきた。古くて建てつけの悪そうなこんな安ホテルであれば、物音から当然誰かが訪ねてきたことはわかるだろう。しかし、私がここへ来ることは事前に彼には知らせていない。いや、むしろ知らせることができなかった、というべきだろうか。ホテルに電話しても誰も出なかったのだから。だが、扉の向こうでたしかに私の名前を呼んだのだ。「ミレーユ」と。

一瞬たじろぎつつもドアを開けると、中にはあの男が立っていた。いつものように上半身裸でポーズをつけながら、微笑とも無表情ともつかない顔をして私を見ている。

窓ひとつなく余計なものが一切置かれていない質素なその部屋は、凍えるように寒かった。むしろ部屋の外のほうがまだ暖かいといえるほどだ。どうしてこんな中を裸でいられるのだろうか。私は外套を脱がない非礼を形式的にでも詫びようかと一瞬考えたが、この状況下でそれが何かとても馬鹿々々しい物言いであるような気がして、それを控えた。

男は促すかのようにテーブルに向かって手を差し出す。その先にはマグカップが置いてあり、中から湯気が立ち上っていた。中身は日本の緑茶のようだ。

「あなたの国では、客人に自分が飲んでいたお茶を勧めるのが礼儀なの?」
急に訪ねてきて第一声がこれか、と少し後悔したが、彼は少しも表情を変えずに、私のために今用意したばかりであることを告げた。

「でも、あなたにはどうして私が来ることがわかったの?これも例の『唯識論的本質直感』っていうやつ?」
何か言いかけようとする彼を制して、私はまくしたてた。
「わかってる。『唯識論的本質直感』はオカルトでも何でもない。特定の感覚をある論理の筋道に従って結論に向かって昇華させる方法とでも言うべきかしら。この場合、そこに付随する余計な現象は戦略的(ストラテジック)に判断停止(エポケー)されるっていうわけよね。当然、何らかの訓練なりが必要なんでしょうけど…これ、いただくわ。」
テーブルの上のマグカップに手を伸ばす。カップにはピストルを両手に持つ悪趣味なカートゥーンのキャラクターが描かれていたが、気にせず口をつける。緑茶の温かみと独特の苦味が私を少し落ち着けてくれたようだった。

「…これだけは言わせてちょうだい。私は自分では何も考えられない頭の足りないマドモワゼルだと思われるのがいやなの。だから、あなたがどうして私の訪問を察知できたのか、それを答えて見せようと思うの。」
彼はまたもや何か言いかけようとしたが、私が睨みつけると、諦めたようにおし黙った。

「ここはまず私がここへ来た理由から考えるべきだわ。…私の友人クロエのボーイフレンドが不可解な状況で殺害された。あなたは私に日本語を教えるために我が家に来たとき彼らと顔を合わせているし、自己紹介もされている。そしてこの事件は新聞にも載っているから、当然知っていても不思議はない。」

「報道ではその殺人が密室という不可能状況で行われたことは伝えられていない。だけど、犯人がまだ見つかっていないこと、パリ有数の資産家であるラトゥール家の御曹司が殺されたのは大変警備の厳しい邸宅の中であることは伝えられているから、何らかの理由で捜査が困難を極めていることは想像できるかも知れない。」

「あなたは決して口には出さないでしょうけど、警視である私の父も含めてフランスの警察は無能だから、こんな難解な事件は解決できないと思っている。そこで、自分の立場を利用して捜査状況を把握できる私が、友人の悲しむ姿に心を痛めてきっと泣きついてくる。そう思ってるに違いないのよ。」

「たしかに前回の事件を解決したあなたの手際は見事だったわ。普通の人間ならばあんなことは考えられない。密室で老人が死んだ原因は、階下でドンチャン騒ぎをした若者達によって増大したエントロピー熱力学第二法則のいう熱死を引き起こしたからだなんて…」

「事件から一週間経って捜査がそろそろ手詰まりとなって、それでちょうど大学のカリキュラムの終わるこの時間頃に私が訪ねてくる。きっとあなたはそう考えたのよ。ただ、お茶を出すには、事前にお湯を沸かしてなければならない。そこまで時間を特定するのはやっぱり無理があるから、あなたは自分でお茶を飲もうとしていたところを咄嗟に切り替えたのよ。そうでしょ?」

彼は何も言わずじっと私を見つめた。相変わらず表情は変わっていない。ふと、彼は壁を指差した。壁が裂けて穴が開いている。そこから外の寒風が部屋の中に吹き込んできていた。この部屋が異様に寒い理由はそれだったのだ。壁の穴を覗き込むと、私がこのホテルまで歩いてきた道のりを、遥か遠くまでまっすぐ見通すことができた。

少し沈黙が続いた。私は自分を落ち着かせるために再びお茶を飲むことにする。品が無いけれども、音を立てて飲むのが日本流だと聞いていたので、この機にそれを実践してみせた。お茶をすする音だけが、空しくこの部屋に響く。

「…で、私の推理は今回の本質じゃないのよ。そんなところに神は宿らないと言えるわ。ここへ来た理由は、さっき説明したとおり、友人のボーイフレンド、ジルベール・ラトゥールが殺された際のトリックをあなたに解き明かしてほしいからなの。」
そう言うと、私は彼の返事を待つことなく、テーブルの上に捜査資料のコピー・現場の見取り図・遺体写真を並べ始めた。

「事件は先ほど話したようにヴィクトル・ユゴー街にあるラトゥール家の邸宅内で起きたの。外から入り込む隙など全くない場所で被害者の遺体は見つかった。現場は内側から鍵のかかった完全なる密室。その部屋に指紋など被害者以外の痕跡は発見できず。死因は胸部圧迫による窒息死。当然自殺の線はなく、凶器、すなわち何による圧死なのかも解っていない。なぜか死亡推定時刻の頃に、雨も降っていないのに邸宅の上空に虹のようなものが目撃されている…お察しのとおり、警察はお手上げの状態です。これでいかが?」
私はしばらくその男の反応を待った。少しして、彼はテーブル上に陳列された資料に一瞥を投げると、捜査には協力できない旨を口にしたのだった。

「どうして?解決してほしいとは言わないわ。推理のヒント、あるいは少なくともあるべき捜査の道筋を教えてほしいの。それだけでもダメなの?」
必死に食い下がったが、彼は頑として協力してくれようとはしない。

「…たしかに前回の事件は、あなたが追ってるらしい人物を見つける過程で解決せざるを得なかった、ということだったわよね。その人物については、全然詳しく話してくれないけど…でも、今回の事件は前回と違って私が興味本位で首を突っ込んでるってわけじゃないの。クロエが…私の親友のクロエのためにも、解決してあげたいの!お願い!」

彼は前に語ったことがある。世の中には様々な悪がはびこり、また悲惨な境遇に苛まれている多くの人々がいる。自分にはその全てと闘い、全ての人達を救済することは当然物理的・時間的にできない。例えばメディアで取り上げられるような事件があっても、それは偶々メディアで取り上げられたに過ぎず、メディアが大抵取り上げる基準はその事件のセンセーショナリズムか「規模」でしかない。10000人が死ぬ事件でも1人が死ぬ事件であっても、死は結局1人1人個々の問題であり、人数の多寡により事件の重大性を決めることは、社会をコントロールしようとする側、まさに「支配者」側の論理に堕すだろう。しかし、これはメディアで取り上げられた事件を解決しようとする人間を別に非難しているというわけではない。それもひとつの「基準」だからだ。自分はこの世界に無数にある事件の中で「偶々知ってしまった事件」を解決しようとは思わないだけだ。自分が解決し、闘うべき悪はたった一つだけと決めているからだ。

私は彼の語る論理をそのときは一応は納得したつもりだった。だが、どこか納得のいかないもやもやしたものが心の奥に残る。私達は偶々知り合っただけなのかも知れない。でもその知り合った人間が助けを求めても、それが「偶々」だから解決に値しないというのだろうか?そこに感情というものは存在しないのだろうか?人間はそこまで冷徹になれるのだろうか?

私は彼に対して無駄に言葉を重ねるのをやめ、もはや懇願を越えて祈りといった気持ちをもって彼を見つめ続けた。

二人の間に長い沈黙が続いた。

そして、ついに男の口が開いた。彼は言ったのだ。君は真実を見つめる勇気があるのかと。
私がその言葉に強くうなづくと、男はおもむろに両手を上げ、まるで鳥が舞うような不思議なポーズをとりはじめたのだった…


言いたいことも言えないこんな世の中は―反町隆史自伝


反町隆史にとって初めての自伝であり、ご存知のとおり人気俳優で歌手でもある彼が、今まさに隠されたベール
を脱ぎ捨て、これまでの半生を熱っぽくかっこよく語りつくした渾身の一冊である。「永いあいだ、私は自分が
生れたときの光景を見たことがあるとなんて言い張っていた」という一節から始まるこの自伝は、まさに誕生し
たその時からスタートする。神童と巷間で呼ばれ、世界中の国旗をすべて覚えた幼少時代、「盗んだバイクで走
り出す」「夜の校舎窓ガラス壊して回っとった」不良少年時代を経て、暴走族「惨痢王」のヘッドとして立川周
辺で名を馳せることとなるが、やがてドラクエひったくりの容疑で逮捕されてしまう。しかし、彼は豚に乗って
少年院を脱獄することに成功し、とりあえずジャニーズ事務所のオーディションを受けて、ついに光GENJI
のバックダンサーとして芸能界デビューらしきものを果たす。なお、ジャニーズ時代のエピソードについては、
既刊「光GENJIへ」等ですでに語られているため、本書では詳述されていない。その後彼は「萬有の真相は
唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」」などという言葉を残し、事務所を去ってしまうことになる。事務所を辞
めた本当の理由についてはこれまで謎といわれていたが、それが「川島なお美カンニング事件」の衝撃による
ものだったことを本書で初めて明らかにしている。それから、保険外交員・喫茶店従業員・ボウリング場支配人
等の職を転々とするも、西海岸出身のパンクバンド・デッドケネディーズの招聘により渡米してバンドを結成、
再びステージ上に立って、熱いメッセージをロックのリズムに乗せた。その頃残したとされる「俺はカート・コ
バーンの生まれかわりだ」という名言については、その当時カート・コバーンがまだ存命中だったことから、彼
のずば抜けた先見性が窺われる。また、MBAをアメリカで取得した後、日本へ戻って俳優業にも進出。唐十郎
の下での下積みの後、TVドラマ「GLA」(グレート・ラブリー・アリヅカ)にて、晴れて主役のシンジを演
じることとなる。そのドラマで共演したRAY役の松嶋奈々子とは、後に結婚することになることはあえて語る
までもないだろう。また、「ビーチクBOYS」にて毎回裸の上半身を披露し、若い女性を中心に絶大な人気を
博したのもこの頃である。現在の彼は、40代を前にしてこれまでのワイルドなムードに加え、演技力の円熟と
大人の渋みによって最も魅力的に見える時を迎えているように思える。それらが、彼自身の不断の努力によって
培われてきたことが、この書籍によって明らかとなった。最近コンビニ弁当とかがおいしく感じられない人達に
も是非おすすめしたい一品である。発売日・出版社未定。

電奇梵唄会奉納ソワカちゃん雑文祭 参加作品